・初任地
先日、福岡県京都郡苅田町に住む男性から手紙が届いた。便せん3枚にわたり、能取岬灯台についての歴史が書かれていた。男性は、「懐かし写真館」の灯台が撮影された前年の昭和28年まで勤務していた。「私は高校卒業後、保安学校アカデミーに入学、同校を卒業後、能取岬灯台が初任地でした」
・頼りにされ
現代と比べ、通信手段などが発達していなかった昭和20年代。「能取岬灯台は網走や紋別などの漁船にとっては無くてはならない存在。霧の発生期には漁船の人から『頼りになります』と言われ、うれしく思った次第です」
・旧日本軍が監視
戦前は、ソ連軍の不法侵入を監視するため旧日本軍の兵隊がいたという。「兵隊さんがいたおかげで電話だけはありました。しかし、電気はなく、私達はランプで過ごしておりました」。九州生まれの男性にとって、「ランプ生活、ラジオ無し、冬期はシバれる痛さで寂しい生活でした」。
・ソ連を牽制
朝鮮戦争(昭和25年〜28年)、東西冷戦の始まりなど、男性は激動の時代を能取岬灯台で過ごした。「ヤルタ協定で日本の分割統括をめぐり、あわやソ連が北海道の北半分を占領しようと試み、米軍が慌てて灯台近くの丘にレーダーサイトを設置。米兵が常駐しソ連を牽制する、というようなことがありました。今の網走の若い人や日本の人達もこんな事実は知らないことでしょう」
・人間を柵で
「懐かし写真館」の木柵について。「岬全体が牧場であったので、我々のほうが柵で囲まれていました。私達の住んでいた宿舎は家畜小屋のようでした」
・灯台の人々は…
写真の時代、能取岬灯台にいた人達はその後、海上保安庁の職員となった。「それぞれ日本各地の保安部署に転勤し、私は沖縄県石垣で退職となりました」